卒業生リレーエッセイ

25歳のエッセイ-現社13期生 川瀬憲一郎さん【卒業生リレーエッセイ(A-11)】

>随筆(ずいひつ)とは、文学における一形式で、筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文である。随想(ずいそう)、エッセイ、エッセー(仏: essai[1], 英: essay[1])等ともいう。「essai」の原義は「試み」であり、「試論(試みの論文)」という意味を経て文学ジャンルとなった。

Wikipedia「随筆」項 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E7%AD%86

新年明けましておめでとうございます。

拙いながらもこのエッセイを書かせていただく現代社会学科13期生の川瀬憲一郎と申します。バトンを繋いでくれた成清君たち14期生のオリター長を務めさせていただきました。稲武での合宿中、いっぱいいっぱいになってしまい泣き崩れながら前年度の副オリ長に電話をかけたことあの夜のことは今でも鮮明に記憶に刻まれています。

卒業から早いものでもうすぐ三年。同じく社会人も三年目が終わろうとしています。
私は今、愛知県職員として教育委員会に配属され、県立高校にて学校事務をしています。教師の母親が毎日遅くまで働き、休みの日も学校に行く姿を見て、子供ながらに“教師にはなるまい”と思っていた私が学校という教育現場の真っただ中で仕事をしているのはなんとも数奇なものだなあと思います。

仕事は、おかげさまで毎日充実しております。自分自身が通っていた高校とは違い生徒たちがのびのびとしており、とても楽しそうな学校生活を送っているように見えます。その傍らで彼らから自由とはなにか、自主性とはなにかを学ばせていただく毎日です。ここに来なければ自分自身の高校生活の客観視は出来なかっただろうなあと強く思います。

この三年間教育現場に身を置いて、愛知県、名古屋市を含め全国の教育現場が大きく揺れていると感じます。度重なる“改革”に振り回され余裕がなくなっているようにも見えます。自分の学生生活を思い返してみても、やはり教える側に余裕がなくなり疲弊すると、それが子供たちにも大きな影響力を持って伝わります。“大人”という存在になるにつれ様々な責務が重なり余裕が無くなってくるものですが、子供たちに余裕を見せることも大人の責務なのではないのかなと思います。(※名市大の安藤ゼミは余裕のある非常に良いゼミでした)

私は高校生まで読書感想文やエッセイを書くことがとても苦手でした。エッセイとは、冒頭の分を引用すると、自身の体験や書物から得た知識を自分の言葉で発信するものです。設問に対し定められた答えを返すものではありません。自分の体験を自分の言葉で発信するためには、ある程度の自主性を育む教育とその発信が許される環境が必要であると振り返って痛感します。詰め込みばかりの余裕のない環境ではそれはありえないものであったのだと、教育現場の傍らで働き始めて、学ぶことが出来ました。

写真1写真2

写真は今年度の文化祭での二枚です。体育館のステージの上でサイリウムを振って踊る生徒たちの姿は輝いて見えました。

なんだか高校の話ばかりで大学色が薄い内容となってしまいましたが、書いている間に普段は通り過ぎて行ってしまう自身の考えが形になる価値ある時間を頂きとても感謝しております。このエッセイを最後まで読んでくださった皆様、お付き合いありがとうございました。

次のバトンは稲武で泣きながら電話を掛けた副オリ長に依頼をしようと思います。
では愛香先輩、よろしくお願いします。

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